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先日、埼玉の富士見市と志木市の案件があって、この地域の近くを訪れました。
この近くには、前から気になっていた集落があるのです。 「三富新田」という集落です。 さっそく、富士見市での打ち合わせが終わった後、行ってきました。 ここを、地図上で見ると一目瞭然。 細長く短冊状の宅地が整然と並ぶ大胆な地割がとてもおもしろいのです。 Google Earth上でも、その地割がはっきりと見てとれます。 ![]() 三富新田は、計画的な新田開拓地で 「屋敷林」~「耕地」~「雑木林」をワンセットで一つの宅地を構成し それらを細長い短冊状に整然と並べて集落を作ったもので 1697年に完成し、300年以上の年月を経た現在でもなお 開拓当時の地割がほとんどそのまま残されています。 各敷地は、短辺が約72m、長辺が約675mと、とても細長い長方形をしています。 人が「自給的な暮らし」をしていくためには このくらいの面積が必要という事なのでしょうか? ここは、計画的に開拓された土地であって そうした意味では、現代の住宅地開発のはしりと言っていいかどうか分かりませんが 現代の住宅地作りの考え方とは、全く違っています。 三富新田は、人が生活していくための 総合的かつ循環的な環境が整備されています。 新田開発なので、当然ではあるのですが 「家単体」だけを立ち並べているわけではありません。 つまり、食べものを生産するための「耕地」が用意され そして、雨風をしのぐ「家」があり 薪の確保や、腐葉土のために「雑木林」があり 夏に涼しく、冬に暖かい生活環境を確保するために 「屋敷林」が計画的に配されているのです。 もちろん木材は、建築資材や農具の材料にも使ったのでしょう。 ![]() ※上は耕地から屋敷林を見た景観。 各敷地の境界には「畦畔茶」と呼ばれるチャノキによる低木の生け垣が連続し 風よけや境界の目印として利用されていた。 ![]() ※上図:埼玉県入間郡三芳町立歴史民俗資料館公式ホ-ムページより抜粋 つまりこれらの構成は、人が生きていくために必要な 「最小単位」と言えるのかもしれません。 上の図は「一軒分の屋敷割のようす」ですが これを最小ピースとして、短冊状にずらりと並べたわけです。 私たちも住宅地づくりの仕事に関わる事がありますが こうした作り方は、ライフスタイルが全く異なる現代では もちろん簡単なことではないでしょう。 人口も増え、確保できる土地の面積の問題もあります。 しかし、東日本大震災の際には、現代の生活がこんなにももろく 持続可能でないことを思い知らされました。 三富新田の集落の考え方は むしろ現代にこそ、必要な考え方ではないかという気がします。 ■
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by lidesign
| 2011-08-04 01:34
| 都市・地域・デザイン
![]() もとより「道路環境」は、植物にとって大変厳しい環境でありますが、先日、打ち合わせで訪れた先で、とてもかわいそうな状況の「並木」を見ました。(左の写真) あくまで想像に過ぎませんが、まず、この「シラカシの並木」が先に存在し、のちに商店街が、「集客効果等のためにアーケードを設置したい」という事になって、「並木を押しやってアーケードを設置した」という事なのかもしれません。 商店街側からしてみれば、「アーケードを設置したい事情」があるだろうし、同時に「並木も出来れば残してあげたい」、という「せめぎあい」なんでしょうけど、アーケードのデザインを考える際に、「もう少し既存並木や、周辺建築群と融合したデザインだってあるだろうに。。。センスゼロ。。。」と思うのは、私だけでしょうか? よかれと思ってアーケードを設置したんだろうけど、逆に「通りの魅力」を損ねてしまってませんか?都市景観としても全く魅力ないし、そもそも「並木」の意味が無くなってるし。。。あーあ、またやっちゃったね(笑)という感じ。。。 つまりこのデザインは、「効率性」や「利便性」とかを、何よりの「最優先事項」として、都市景観や、あるいは既存の並木の価値などについては、「何も考えなかった」、あるいは「どうでもいいと思った」っていうことなんだろうと思います。 こうしたとこに「街に対する意識」とか「センス」の一端がなんとなく透けて見えてしまう。。。 日本の街のデザインは、この「何も考えなかった」というのが大変多いと思うのですが、この「何も考えてこなかった」ことが、結果として、「思いも寄らぬ面白い結果」を生じたりして、「いい意味で、生活観のある複雑な構造の街」を形成したり、「作為のない美」といったものを醸し出す場合も、確かにあるんだと思います。 でもだからといって、先の「アーケード」の話は、全く別の次元の話だし、もうちょっと考えてくれよ、って思います。 ![]() あと目に付いたのが、歩道の「舗装パターン」のデザイン。。。この小刻みなパターンの連続は何を意図したのだろう。。。 ただでさえ「雑然とした街」なのに、それを「さらに倍増させる効果」は十分にありましたけどね(笑)。。。 街の魅力って、まずは「自然発生的な生活感」がそこにあって、それを生かす「絶妙なセンス」が必要なんだと思います。 ■
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by lidesign
| 2009-07-22 20:58
| 都市・地域・デザイン
先日、打ち合わせで埼玉県春日部市へ。
少し時間をとって、ふらっと歩いてみました。 仕事柄かもしれませんが、その土地の成り立ちや地形とか。。。更には、その街の産業が、どうしてそう発展したのか、なんでここにこういう建物が多いのか、とか。。。想像しながら、気楽に歩くのが好きなんです。 春日部は大部分が低地なんですが、古利根川の後背湿地に、水田が広がっています。 そして、古利根川が作り出した、わずかな自然堤防の微高地上に、市街地や住宅が発達したようです。 ![]() 街を歩いていて、すぐに気付くのは、結構古い町屋が残っていること。(左の写真) かつて、旧日光街道沿いに「宿場町」として栄えたらしく、その面影が、所々ですが、今も感じられます。 ![]() また、「古利根川沿い」には「古い蔵」が点在していて、これらは、かつて、目前の古利根川がこの街の重要な「水運」だった証しでしょう。 (右の写真が古利根川) それと「寺町」もありました。寺町とは、寺院を集中的に配置している地区で、旧日光街道が、大きくカーブする、その「突き当たり」に配置されていました。 寺町は、「陣屋としての役割」、つまり、「有事の際の防御機能」を持っていたといいますが その背後に控える鎌倉時代の領主、春日部氏の居館を防御する役割を担っていたんだろうか? 寺院は、心のやすらぎを得る場所であると同時に、このような戦(いくさ)に備えた場であったり、人々のコミュニケーションの場であったり、街の中で、多様な役割を担っていたスペースだったのでしょう。 この寺という「スペース」も大変興味深い対象です。 こうしたものが、これ見よがしにアピールされている訳でもなく、むしろ「そっけなく」点在している点も、良い点です(笑)。 ![]() 急な、しかも見ず知らずの人の訪問にも関わらず、本当に快く対応して下さって、ありがたかったです。 ![]() 今では、ご商売は辞めてしまったそうですが、蔵や建物は、そのままにしているとの事でした。 特に行政指定の保存建物とかではないらしく、管理は、あくまで所有者の方にゆだねられているみたいなのですが、このようないい状態で、当時の姿を継承している事に敬意を抱きました。 それと、忘れてはいけない「重要な要素」がありました。 この地域には、縦横に「水路」が走り、古利根川と水田を結んでいるという点です。 これが、この地域の大きな要素で、この水辺環境を活かせたら、結構面白いんじゃないか、この街。 残念なのは、現在は、それらが環境的にも景観的にも生かされているとは言いがたいし 少なくても生物生息環境としては捉えられていないだろうな、というのが残念ですけど。。。 こうして見ると、意外にもポテンシャル高いです、春日部って。 これからも訪問先で、出来るだけ時間をとって「気楽な街探索」をして、ごく簡単ですけどレポートをしたいと思います。 ■
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by lidesign
| 2009-06-29 14:31
| 都市・地域・デザイン
![]() 大連は、日本のように四季がはっきりしていて、この季節は、とても心地よく過ごせます。 でも、夜はまだまだ肌寒くて、上着無しでは過ごせませんで、昼夜間の温度差が激しいです。 また、以外だったのは、サクラが咲いていたことです。自生種がどうかは分かりませんでしたが、春らしい景観が見られました。 ※左の写真は、宿泊したホテル前の市内の様子です。 大連へ何度か訪れる内に、現地の感覚や、習慣といったものが、前よりは実感できるようになってきていて、それがデザインにもいいカタチで反映してくればいいな、と思っているところです。やっぱり現場独自の感覚や、地域特性みたいなものは一回行っただけでは分からないですから、出来るだけ現場に足を運んで、実感として感覚をつかむのは、言うまでもないですが、基本中の基本ですよね。 ところで、私が今回行ったのは、まだ工事未着手のランドスケープ計画の修正箇所についての打ち合わせと、少しずつ進んでいる建築工事の現況視察が目的でした。現在進みつつある建築工事の方は、うまくいっている部分と、必ずしも図面通りに施工されていない部分もあるなど、なかなか思ったようにはいかない部分もあるようです。ランドスケープにおいてもそうした現地の施工力や、資材や技術の問題を検証しつつ、提案していく必要性があるなと感じていて、それが結構重要なポイントになっていくように思います。 もうひとつのポイントは、私たちのデザインのコンセプトをうまく伝えられるかどうか、なんだと思います。まず相手を理解し、そしてこちらの考えを伝えるわけですが、これがやはり最も難しいところでもあります。当然ですが、100人いれば、100通りの考え方があるわけですから、お互いを理解しあって、いかにイメージを共有していけるかが、プロジェクトの「鍵」となると思います。 ![]() 特に言葉も文化も違う環境では、そう簡単なことではないのかもしれませんが、空間や環境の質を良くしたい、という点では、間違いなく既に意識を共有しているわけですから、あとはさらに突っ込んだ部分で、お互いの空間に対する「固定概念」を外しながら、イメージを共有していければいいな、と思っています。 他の一般的な中国の案件と比較すると、割とゆっくり進んでいるようで、これからまだしばらく掛かりそうですが、クライアントと共に楽しく進めて行きたいと思っています。右上の写真は、プロジェクターでのプレゼン準備をしている所。 ■
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by lidesign
| 2009-04-12 21:06
| 都市・地域・デザイン
![]() 浅草寺を中心として「仲見世の参道」が「街の軸」になっていて、そこから路地や裏通りが広がって、「街のグラデーション」が生み出されている、というイメージがあって、なかなか興味深い街です。 浅草界隈は、観光地らしく景観を整えられている地区もある一方、けっこう看板なども乱立してたり、裏通りなどは雑然とした地区も多い気がするのですが、それでもある種の文化性を感じるのは、やはり「仲見世の参道」という「街の軸」が、しっかりとあるからではないか、という感じがします。 同じような感覚を、青山、表参道界隈にも感じます。「明治神宮へと通ずる表参道」と、その「ケヤキ並木」が、いわゆる「街の軸」を形成していて、その周辺路地に、商業施設や住宅地が付帯しているといったイメージです。ここでも「参道の軸」から「周辺路地」へと移行していく「街のグラデーション」が見られます。 つまり、浅草は浅草寺の「門前町」、表参道は明治神宮の「門前町」なので、双方とも寺社を中心とし、そこに向かう「参道の軸」に、「周辺路地」が付帯しているといった構図になっています。かつての「寺社への参道」と「周辺路地」の関係が、現代の日本の都市に、ひっそりと息づいているんですね。 ![]() こうした構図は、新しい街づくりにも生かせるのではないでしょうか。「オモテとしての参道」から「ウラとしての周辺路地」へと移行する中で、「スケール感の変化」、並木や植栽などの変化、ペイブメントのパターンやテクスチャーの変化など、空間を構成する様々な要素が、「街のグラデーション」を形成していき、奥行きのある街を形成できるように思います。そして路地の奥には、多様で魅力ある「パーソナル空間」が生まれていく、というカタチです。 魅力ある街には、こうした参道のように、「街の軸」となるような、質の高い空間が存在し、そしてそれが比較的「長尺」であること、さらにそれに付随する路地の奥深さのなかに、魅力的な「パーソナル空間」が発生している事が共通しているような気がします。浅草界隈と表参道界隈には、こうした参道と周辺路地の「いい関係」があるように感じます。「参道」が街づくりに一役買ってますね。 ■
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by lidesign
| 2009-02-12 18:11
| 都市・地域・デザイン
![]() この広場は、高山英華氏の基本構想を元に、かの芦原義信氏が設計したもので、敷石による広大な広場空間です。 隣接する大屋根の体育館は、高さを抑え、存在感を抑えようとしたかにも見えますが、どう見てもその力強い構造美は、空間に建築の「図」としての存在感を力強く与えています。但し、それは地形ともとれる「水平の秩序」です。 一方、広場の軸線上付近に位置する管制塔(上の写真)は、この水平に広がる空間に「垂直の秩序」を与えていて、それらが、広場の見事なスケールを介して、高い空間性を与えています。体育館・管制塔・広場ともに、都市的なスケールの存在感で、日常的で人間的なスケールをはるかに超えているので、そのことも「強い空間性」を感じる要因でしょう。 ※残念ながら現在改修工事中で、広場全体の写真が撮れませんでした。右下の写真は、改修工事中の広場の様子 ![]() この空虚ともいえる広場は、「空間の質」としてはとても充実していて、芦原氏はこの広場を「イタリア的とも言うべき外部空間」と述べていますが、私は日本的な神聖ともいえる空間の緊張感を感じてしまいます。俗に言う「間」(ま)というものでしょうか。。。 例えば、よく寺社の前庭に、白砂か砂利を敷き詰めただけの空虚で平らな場所が見られる事がありますが、これらは宗教的な神聖な空間でもあります。こうした空虚で平らな空間は、空虚であるがゆえに様々な自然の事象や、うつろいを内包する空間であって、逆に豊かな空間の充実を感じずにはいられません。あの龍安寺の石庭も、様々なものを削っていったマイナスの美でもあり、この中央広場には、そうした日本にかつてから見られる美の精神の一端を垣間見る気がするのです。 ![]() それだけに、そこに存在するモノたちは、そのディーテールやプロポーションが重要となるのですが、それでもやはり核は、この広場の「間」(ま)であって、それがまさにこの「空間の質」を決定付けている気がします。 私たちは「マイナスのデザイン」、つまり、「引き算の美」を日ごろから意識していますが、それらは「きめ細かなスケール感」と「間(ま)の感覚」をなくしては成り立たないことを、この空虚で豊かな広場は教えてくれます。そこには「何もない」のではなく「全てがある」という感覚は、日本人のDNAでもあるのかもしれません。 ■
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by lidesign
| 2009-01-18 18:43
| 都市・地域・デザイン
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